○「梅蘭芳」年譜 祖父・梅巧玲(1842−1882) 清朝の同治・光緒時代における、13人の著名な京劇・昆曲役者 (同光十三絶)の一人 祖母・陳氏(1840−1924) 著名な男役・陳金爵の娘 父・梅竹芬(1874−1897) 京劇女形役者 母・楊長玉(1876−1908) 著名な京劇荒事師役者・楊隆寿の娘 叔父・梅雨田(1865−1912) 著名な京劇の胡弓奏者、演劇の楽師 梅蘭芳(1894−1961) 1894年10月22日北京前門外李鉄拐通りにある梨園の名門に誕生。 1899年(5歳) 梅蘭芳は北京百順胡同の付近にある私塾に通う。 1902年(8歳) 正式に昊菱仙氏に師事、女形の稽古を開始。最初に稽古した劇は「戦蒲関」で、 その後「二進宮」、「桑園会」、「三娘教子」など約30以上の劇を稽古。 1904年(10歳) 8月17日、(旧暦7月7日)、北京“広和楼”劇院で初舞台を踏む。 劇「長生殿・鵲橋密誓」で織姫の役に挑戦。 1907年(13歳) 梅蘭芳一家は百順胡同より戸草園に越し、劇団「喜連成」を設立。 1908年(14歳) 8月14日、母・楊長玉氏が病死。一家が鞭子巷一条に引っ越す。 1910年(16歳) 王明華氏と結婚、趣味として鳩を飼い始める。 1913年(19歳) 10月31日、上海在住の許少卿氏より招聘を受け、始めて上海で公演。 11月16日、初めて「穆柯寨」を上海で公演し、初めて大切りをつとめた。 この年、新しい歌い方を研究しながら昆曲を勉強し始めた。 一家は北京鞭子巷三条に引っ越す。 1914年(20歳) 喬憲蘭氏をはじめ季寿山氏と陳嘉梁氏について昆曲の勉強を開始。 また、路三宝氏と王瑤卿氏について京劇の稽古を開始。 初めて創作した新京劇を7月から10月まで、「翊文社」での上演を試みる。 化粧と頭飾りを改善。 1915年(21歳) 創作した新京劇「宦海潮」と「?ケ霞姑」をそれぞれ4月10日、16日北京吉祥園で公演し、 「嫦娥奔月」を10月31日北京吉祥園で初公演、初めて京劇舞台でセンター・ピンを使用し、照明の役割を大さく前進させた。 この年、画家・王夢白氏について絵の勉強を開始。 その後、陳師曽氏、金拱北氏、姚茫父氏、陳半丁氏そして斎白石氏などの画家との交流が始まる。 また、収集家である朱翼庵氏との交流を通し、書、絵と古い器を数多く鑑賞。 1916年(22歳) 1月14日、創作した「黛玉葬花」を公演。 4月19日から21日まで新京劇「一縷麻」を北京吉祥園で公演。 1917年(23歳) 神話「天女散花」を創作。 1918年(24歳) 「遊園驚夢」に出演。梅派の「遊園驚夢」は中国演劇芸術にまれ見る傑作との賞賛。 「麻姑献寿」「紅線盗盒」などの劇を創作。 1919年(25歳) 日本帝国劇場の招聘により「喜群社」を率いて4月21日から5月27日まで来日。 東京、大阪そして神戸などの都市で公演。 12月、実業家・張謇氏の招聘により、初めて江蘇省南通で公演。 1920年(26歳) 初めて無声映画「春香閙学」に出演。 1921年(27歳) 年頭、楊小楼氏とともに劇団「崇林社」を設立。 年末、福芝芳氏と結婚。 1922年(28歳) 2月15日、創作した「覇王別姫」が北京第一舞台で初上演。夏、独自に劇団「承華社」を設立。 香港太平洋劇院の招聘により、「承華社」団員総勢140名以上を率いて、10月15日から11月22日まで香港で公演。 1923年(29歳) 初めて京劇の伴奏楽器に二胡を加え、京劇の音楽に色どりをつける。 11月、北京開明劇院で新作「洛神」を公演。 11月、北京真光劇院で新作「廉錦楓」を公演。 1924年(30歳) 5月、北京でインドの著名な学者・詩人・作家であるタゴール氏と会見。 日本帝国劇場の招聘により二度目の訪日を実現、10月9日から11月22日まで東京、大阪、京都などの都市で公演。 1925年(31歳) 「太真外伝」第一部、第二部を創作。 1926年(32歳) 「太真外伝」第三部、第四部を創作。 北京東城無量大人通りの自宅にスウェーデン皇太子夫妻を迎えた。 1927卑(33歳) 京劇「四大名旦(女形)」のトップとの評価。 「俊裘人」を創作。 1928年(34歳) 4月6日、創作した「鳳還巣」を北京中和劇院で初公演。 夏、北京で「宇宙鋒」を創作。 この年、二度日の香港公演。 1930年(36歳) 1月から7月まで「承華社」を率いて日本の横浜、カナダのヴィクトリアを経由、アメリカで公演。 シアトル、シカゴ、ワシントン、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴ、ホノルルなどの都市で72日間にわたり公演。 アメリカのポモナ大学そして南カルフォルニア大学より、それぞれ名誉文学博士号の授与をうける。 1931年(37歳) 5月、余叔岩氏、斎如山氏、張伯駒氏とともに「京劇学会」を創立。 三度日の香港公演。 1932年(38年) 上海に移住。 1933年(39歳) 上海天蟾劇場で新作「抗金兵」を上演。 1935年(41歳) 2月21日から4月21日まで劇団を率いてソ連(現在のロシア)に訪問公演を。 演劇大家であるスタニスラフスキー氏及びブレヒト氏と会見。 4月から8月まで視察のため、ポーランド、ドイツ、フランス、イタリア、イギリスを訪問、エジプト、インドを回って帰国。 1936年(42歳) 2月26日、上海天蟾劇場で新作「生死恨」を上演。 1938年(44年) 家族、劇団団員とともに香港で公演を。一家香港に留まった。 1941年(47歳) 役者生活に終止符を打つ。 1942年(48歳) 夏、香港より上海に移住。人と会うのをやめてひっそりと暮らす。 1945年(51歳) 10月再び舞台に。兪振非氏と上海美?h劇場で昆曲「断橋」「游園驚夢」などを共演。 1948年(54歳) 6月から11月まで上海聯華三廠で映画「生死恨」のカラー版を撮影。 1949年(55歳) 7月、中華全国第一回文学・芸術家大会に出席。 9月30日、全国政協常務委員に当選。 10月1日、中華人民共和国及び中央人民政府創立式典に参加。 1951年(57歳) 4月、中国演劇研究院院長を任命。 7月、一家が上海より北京の護国寺街1号(現・梅蘭芳記念館)に移住。 1952年(58歳) 12月、オーストリアの首都ウィーンで開催された世界人民平和大会に出席。 この年、ソ連の舞踊大家ウランノワ氏と北京で会見。 1953年(59歳) 10月、中国演劇家協会副主席に就任。 1954年(60歳) 9月、中華人民共和国第一回全国人民代表に当選。 1955年(61歳) 1月、中国京劇院院長に就任。 4月、文化部、中国文聯そして中国劇作家協会の共同主催で梅蘭芳先生と周信芳氏の役者生活50周年記念行事を開催。 2月から8月まで「梅蘭芳舞台芸術」を撮影、12月に完成。 1956年(62歳) 5月26日から7月16日まで日本・朝日新聞社の招聘で、周恩来総理の尽力により団長として最大規模を誇る京劇の代表団を率いて訪日。 三度日の訪日。東京、九州、大阪、京都そして名古屋などの都市で公演。 1967年(63歳) 6月7日、北京で国際舞踊協会主席より栄誉賞を。 1959年(65歳) 5月25日、北京人民劇場で「穆桂英掛帥」を上演。 1960年(66歳) 1月21日、映画「游園驚夢」のカラー版が完成。 4月15日、北京市人民委員会より梅劇団団長の任命。 1961年(67歳) 5月31日、中国科学院で「穆桂英掛帥」に出演、最後の舞台となった。 7月9日、中国劇曲学院院長に就任。 8月8日午前5時、病により北京で逝去。 「梅蘭芳記念館」所蔵資料より |
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